リベラリズムを「自由主義」とするのは誤訳、「リベラルの基本的な価値は自由ではなく正義だ」

 で話題になっているが、そもそもリベラリズムの定義から再考すべきではないだろうか。

 

 

追記:下の記事でより日本における一般的なリベラル・リベラリズムの定義が述べられているのでそれを読んだ後に読むと良い。リベラルの定義はアメリカ、ヨーロッパ、日本でそれぞれ微妙に異なるので極めてめんどくさいのだ。「第二の類型」に属するバカリベラルの象徴SEALDsがにわかに持ち上げられたせいで、下の記事にある「第一の類型に属するリベラル」の力が相対的に弱くなった。というか、アホな「第二の類型」に属するリベラルのせいで、「第一の類型」に属するリベラルまで頭が悪いわからずやの夢想家みたいにひとくくりでみなされて、リベラル全体が見放されつつある。SEALDsは社会にほとんど政治的影響力をもたらさなかったのは、先の選挙で明らかとなったが*1  リベラリズムに対して大きな負のイメージを与えたという意味でSEALDsの影響は大きかったと言わざるをえないだろう。

synodos.jp

 

 

 

リベラルのことは嫌いでも、リベラリズムは嫌いにならないでください--井上達夫の法哲学入門 より引用した。

 


──そもそもリベラルとは何でしょう。それが「リベラリズム」から来ているのはわかりますが、そもそもリベラリズムとは何か。それが意外に語られない。

 

 (中略) 

岩波書店の、一九九八年に第一刷が刊行された『哲学・思想事典』でも、リベラリズムは「自由主義」という項目でエントリーされている。実はこの項目を書いたのは私です。項目名は定訳にするという編集部の方針に従いました。しかし、自分としてはリベラリズムを「自由主義」とするのは誤訳だと思っているか音読みのカタカナのまま使っています。 あるとき、岩波の『思想』という雑誌の編集部から、リベラリズム特集号をつくるから企画をやってくれと頼まれました。その特集号は二〇〇四年に出ることになるんですが。 そのときに、担当編集者から聞いたのだけど、『思想』はこれまで一度もリベラリズムを特集したことがないという。その時点で戦後六〇年くらいたっているのに、日本の思想界で老舗としての権威をもつ雑誌が、一度もちゃんとリベラリズムにスポットライトをあてたことがなかったというのは、それ自体興味深い思想史的事実です。 その『思想』のリベラリズム特集号で、私は「リベラルの基本的な価値は自由ではなく正義だ」という趣旨の基調論文を書きました。それが私のリベラリズム理解です。無理に日本語にするのなら、「正義主義」とでも言ったほうがいい。

 (中略) 

私がリベラリズムをどう理解しているかを、ここでは率直に話しましょう。

 

 

 

 啓蒙と寛容

リベラリズムとは何か。リベラリズムには二つの歴史的起源があります。「啓蒙」と「寛容」です。

啓蒙主義というのは、理性の重視ですね。理性によって、蒙を啓く。因習や迷信を理性によって打破し、その抑圧から人間を解放する思想運動です。一八世紀にフランスを中心にヨーロッパに広がり、フランス革命の推進力になったとされる。

寛容というのも、西欧の歴史の文脈から出てくる宗教改革のあと、ヨーロッパは宗教戦争の時代を迎えました。大陸のほうでは三十年戦争、イギリスではピューリタン革命前後の宗教的内乱。血で血を洗うすさまじい戦争でした。それがウエストファリア条約でいちおう落ち着いた、というか棲み分けができた。その経験から出てきたのが寛容の伝統です。宗教が違い、価値観が違っても、共存しましょう、という。この「啓蒙」の伝統と「寛容」の伝統が、リベラリズムの歴史的淵源だということは、ほぼすべての研究者の共通了解です。

 

(中略)

 

受け入れる 度量  

たしかに、英語の「寛容」という言葉、「トレランス(tolerance)」には、こうした否定的なニュアンスもあります。動詞のトレレイト(tolerate)というのは、「不快なことを我慢する」という意味ですね。自分が「忌まわしい」と思っている信念に従って生きている連中がいて、嫌なやつだと思うが、まあ許してやる、もっと言えば、「本当は殺したいけど我慢する」、その代わり、そいつらが自分の生や信念に文句をつけたり干渉してくることは絶対許さない。互いに相手の蛸壺に介入するのを自制することで、自分の蛸壺のなかでは唯我独尊を守って共存する。そういうニュアンスが「トレランス」という言葉になくはない。日本語の「寛容」は、それとは違いますね。寛く、容れる、ですから。この意味での英語は、むしろ「むしろ「オープン・マインデッド(open-minded)」です。自分と視点を異にする他者に対し、自分に文句をつけてこない限り、「嫌な奴だけど我慢してやる」ではなくて、そういう他者からの異議申し立てや、その攪乱的な影響に対し、それを前向きに受け入れる。それは自分のアイデンティティを危うくするおそれもあるけれど、あえて引き受けよう、という度量ですね。それによって自分が変容し、自分の精神の地平が少し広がっていくかもしれない。それこそが、寛容のポジだと、私は思います。単に「おまえはおまえ、おれはおれ」と棲み分けて、「批判はお互いにしないぞ、聞かないぞ」という自閉的態度。その結果として、お互いの国がお互いの政治的抑圧を許し合う。それは、寛容のネガです。そうではなく、自分自身が、他者からの批判を通じて変容していく。その可能性を引き受ける。お互いがそうした態度をとる。それこそが、寛容のあるべきポジです。「正義」がリベラルの核心リベラリズムは、啓蒙と寛容という二つの伝統から生まれたと言いました。しかし、啓蒙にも寛容にも、これまで言ったように、ポジとネガがある。両者のネガを切除し、そのポジどうしを統合させるための規範的理念が、私が考える正義なんです。もちろん、一口に正義と言っても、対立競合する正義の規準を掲げるさまざまな思想、たと功利主義とかリバタリアニズムとか、平等主義的権利論とか、いろいろあります。哲学用語でそれらを「正義の諸構想(conceptionsofjustice)」と呼びます。しかし、正義の諸構想が対立するのは、正義という同じ概念について異なった判定基準を提唱しているからです。この同じ概念を哲学用語で「正義概念(theconceptofjustice)」と呼びます。「正義の諸構想」が共通して志向する「正義概念」の中身は何か。「等しき事例は等しく扱うべし(Treatlikecasesalike.)」という命題で正義概念は伝統的に表現され、これを形式的、無内容なものとみなす立場もあります。しかし、私は正義概念は重要な規範的実質をもち、それが啓蒙と寛容のポジを統合してリベラリズムを再編強化する指針になると考えます。

 

リベラルのことは嫌いでも、リベラリズムは嫌いにならないでください--井上達夫の法哲学入門 

 

 

  

 

*1:
 革命的な政治運動が成功するには、常に中産階級の内部での意見の変動を必要とするのは歴史を見れば明らかである。小泉改革からフランス革命に至る真理である。マルクス主義は伝統的に好んでプチ・ブルジョワをバカにしてきた。しかし、プロレタリアートではなくプチ・ブルこそがいつも歴史を動かすのだ。イギリス人およびアメリカ人中産階級の穏やかさが、英国と米国におけるリベラル・デモクラシーの安定性を作り出したのである。中産階級を説得しないような運動などそもそも初めから成功するわけがないのだ。